CALM

伊袂つうの個人日記。

30年後まで十分有用な躾方法

ホトボリも冷めてきたのに今更感もあるのですが、某しつけの置き去り事件。
同じ町内に住むものとしては連日報道に色々思い出すこともあって、でも触れないほうがいいのかな…とずっとモヤモヤしていました(私は子供がいないし、結局ひとの家庭内のことだし外野論しか言えないですしね)。
思い出した大半は別に彼についてではなく、自分自身のフラッシュバックといいますか、このままだと溜まっていきそうだったので、ちょっと書くことにしました。

私、実は長女でして。第一子ということで、それはそれは両親も試行錯誤の毎日だったと思います。躾の仕方だって毎度ぶっつけ本番、ゲームで言うならば万全ではないステータスの状態でHPゲージが見えないボスと戦うような、「いつ仕留められるんだ、こいつは」という、途方もない感はあったと思うのです。

今になって思えばそんな「見通しのきかなさ」から、やむを得ずそうなってしまったんだろうなと理解もできるのですが、うちの母親は、とにかく条件反射狙いの躾が多かったので、子供ながらに心理的な負担は結構ありました。
例えば、「ダメ」という言葉が出る前に「チッチッ」と舌を鳴らすんです。

一人娘の母は、去年亡くなった祖母に事あるごとに叩かれて育てられたため、自分の子供には手を上げず育てるんだと思って生きてきた、とずっと聞かされてきました。実際母に叩かれたことは数えるほどしかありません(ただ滅多にないその機会は、二段ベットの上から引き摺り下ろされたり、体を掴み挙げられて顔を鼻血が出るまで殴られたりでしたが・笑)。舌を鳴らすのも母親なりの警告で「(舌を)鳴らしているうちにやめなさい」という意味、それでも私が言うことを聞かない場合は、ぶつからない場所にモノが飛んできたり、大きな声を上げられることが多かったので、大人になり冷静に振り返ると、ペットの躾に近いんじゃないかなとも思えます(いや、今のペットはそんなことされないか…)。

下に弟が二人出来てくると、「お姉ちゃんなんだから…」「お姉ちゃんなのに…」という鉄板のワードも漏れなく使われるようになり、「…」の向こう側を自分で理解して行動することを覚えました。この頃になると万能な不許可ワードが成立してきます。「好きにしなさい」です。
これは文字面だけ見ると許可ですが、「…」の向こう側を読むことがデフォルトになっていた私にとっては、その中に含まれている意味や結果の恐怖たるや筆舌に尽くしがたく、特に片親になってからは親からの拒絶がどれほどの絶望かを知ることになり、こうして独立し別居して社会経験を積んだ年齢になっても、未だ「好きにしなさい」で好きに出来ず、他人の大声や舌打ちに意味なく怯え、含みのある言葉の向こう側を無限に理解しようとしてしまうほどには、生きづらさを感じることがあります。

何も山林に置かなくても、その後30数年、子供に解けない黒魔法をかけることだって出来るんですぜ…。

親だって毎日大変。だから今更責める気もないし、普通に会話をする程度までは回復しても、しかしながら根底では納得してもおらず、この微妙な隔たりは恐らくどちらかが死ぬまで続くのだろうな、と淡々と思う深夜なのでありました。